「愛」について 「利己愛」と「利他愛」
で、たまには、自分を肯定して褒めまくる!ってのもいいですよっw!
って書きました。
自分を否定して、自分さえも「愛」せなければ、他を「愛」することなんて無理じゃね!?って思うんです。
スピリチュアルの世界では「人生とは『愛』を学ぶ場だ」とよく云われますが、段階踏んで、色んな「愛」を経験しながら、「利己愛」から「利他愛」までを訓練していく場なんだろうな~!って。
個人の初期設定wによって違いはあると思いますが…オーソドックスなケースとして
- 生まれた時は、母親から「愛」を受け取る練習でしょ。
- それから、父親からも。
- 兄弟姉妹がいれば、兄弟姉妹に対する「愛」を受けたり与えたり…
- 幼稚園、学校などの社会に入れば、血縁のない者との交流から「愛」とまでは行かないかもしれないけど、「友情」「優しさ」について学んだり…
- 思春期からは男女間の「愛」を学び始めて……恋愛、結婚で一旦学び終わったと思いつつ、「愛」が変な形に変化してしまって、「憎悪」に発展してしまうケースもあったりw…
- 子どもが出来て、愛おしい感じの新たな「愛」を発見したり…
- 子どもが出来てから氣付かされる、自分の親に対する「感謝」であったり…
と、一口に「愛」と云っても、色々な形があります。
「愛」を学ぶには「善と悪」「正義と不義」「陰と陽」といった真逆の立場に立って、実際に両方体験することで、より深い認識を得られるんじゃないでしょうか!?
面白いのが、小学高学年の頃なんて、「男子vs女子」みたいな状態じゃないですかw!?「好きだ」なんて言う訳ないし…。男子だった僕は、むしろ「女なんて」位の勢いでしたからねw。
周りの雰囲気も大方そうだし。冷やかされるのが何より嫌で、恥ずかしくて……、でもそこそこ時間が経つと、本当は好きだったりした事に氣付いたり…ですよね!?。
だから、実際、「好きだ嫌いだ」言ってる(言える勇気があるw)友達を見て、冷やかしつつも羨ましかったりなんです。
まぁ、今思うと些細な「男子vs女子」の対立も、魂の叫びなり本能によってあっさりと氷解してしまうことには分かってるんですけど…。
男女間の「愛」は一番手っ取り早い練習方法なのかも知れません。「性欲」っていう強い味方がいる訳で。
子どもの頃の「好き」からようやく「愛」が判りかけて来ますよね。
次に来る、子どもに対する「愛」で自己犠牲も厭わない位の「愛」を理解してきますね。
自分が親の立場になってから、初めて、自分の親に対する「愛」。自分を生んでくれた事への「感謝」など…。
子どもの頃、親に口答えすると、よく言われませんでしたか!?「あなたも親になったら分かるっ!」ってセリフ。子ども心に「物理的に無理やんっ!」っていっつも思ってましたので、その時は説得力ありませんでしたけどねw。
だいたいこんな感じで「愛」について学んでいくんじゃないでしょうか!?
段階を踏みながら、順調に学んでいると思いきや、超絶ジーニアスによってスケジューリングされたネガティブキャンペーンのトラップwによって、精神的に参らされてしまうこともあると思います…自己否定ってやつが、学びを邪魔してくるんです。
そんな時は、「自分さえも愛せなくなっている状態で他を愛するなんて無理じゃね!?」を思い出して、振り出しの利己愛からまた一歩一歩進むしかありませんね(笑)。
前世、過去生からの課題によっては、今生では特に重きを置こう!と思って設定してきた「愛」の種類は、個人個人でそれぞれ違いますので…
- 親がもともといない設定
- 兄弟姉妹がいない設定
- 彼氏彼女がいない設定
- 異性の恋愛対象がいない設定
- 子どもがいない設定
など、重点的に学べるであろう設定を、自分でチョイスして来てる訳なので、素直にその設定を受け入れた上で学んで行くべきでしょうね。もちろんスピリチュアル的に云うとですよw。
なかには、もう何もかもすべて揃った条件でモテモテの一見「ボーナス人生」の様な人も居ますよね。
でも、羨ましがられて、意地悪される対象の役回りだったり、モテ期を過ぎたら、転落の一途みたいなこともあったり、一つの人生でも時期別に色んな設定をしてきたり…っていうことも有り得ますね。
全部、自己責任ですね。スピリチュアル的に見ると。
ともあれ、それぞれの人生で目指すは、究極の「愛」である「全てに対する愛」。
転がっている石ころとかに対してもっw!
「利己愛」から~の「利他愛」へ
愛が世界中に充満すれば戦争なんて起きないやろし。そんな地球に住みたいですねっ!
おまけw…
昔、江口洋介、福山雅治、酒井法子などが出演していたドラマ「ひとつ屋根の下」のあんちゃんの名台詞「そこに愛はあるのかい!?」って、人生の本質だと思ってました。観てた当時は小っ恥ずかしかったけど...。
今日もありがとうございました。